写真AC雑記帳

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旅行:2018年ひたすら歩く岐阜名古屋の旅(4.二日目大垣から名古屋まで)

例年通り三月は忙しかった……。全然記事が書けませんでしたが、ぼちぼち再開していきます。しかし年初の目標を達成するのは難しそうだなあ。

今回は岐阜名古屋旅行二日目の話です。前回は養老天命反転地からさらに養老の滝へと向かう道のりでしたが、この日はまだまだ歩いていきます。 

 

1.大垣に立つ。

養老へ向かう時には実質スルーした大垣ですが、今回はある程度見て回ります。まずは大垣城に狙いを定めて歩きます。大垣には水の都という異名があるそうで、駅の近くに噴水があるほか、市街地に湧水が出ている個所もあります。

さて大垣城。市内を歩いていても、なかなか天守は見えてきません。地図で見ると駅から遠くない距離にありますが、周りの建物に埋もれてしまっている様子。寂れた感じのアーケード街もなかなか風情がありますが、アーケードだけになおさら天守が見つけられません。

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老朽化が進んでいるし、人通りもない。日本のあちこちにこういうアーケード街があると思いますが、嫌いじゃないです。引き続きアーケード街を歩いていくと、大垣城を示す看板に行き当たります。看板の指示通りの方角を向けば、廃れた雑居ビルが立ち並ぶ先に隠れていた天守閣が見えます。f:id:daphniaP:20190412194240j:plain

左側に古そうなビリヤード店。ものすごいレトロ感、ほどなく平成も終わるというのに溢れる昭和感がすごい。その奥の歯科も含めて味わいがありすぎる。そして日常生活と地続きの位置に存在する観光名所大垣城天守というアンバランス感、だがそれがいい

 

2.大垣城復元天守内を歩く。

城好きな方には釈迦に説法ですが、現存12天守という言い回しが存在する通り、昔から存在した本物の天守というものは日本に12か所しかありません。大垣城天守も復元天守というカテゴリに属する復元物です。復元天守は、比較的本来の天守に忠実な再現を果たしている分類であり、復興天守や模擬天守という分類もあります。模擬天守ともなると、実質的に想像上の産物みたいなものなのですね。

さて、大垣城天守自体はそれほど「凄い!」印象ではありません(失礼)が、関ケ原の戦いで西軍の重要拠点となっていたこともあってか、石田三成の旗印(大一大万大吉)が備え付けられています。遠目に見るとマチに埋もれた天守という印象ですが、近づいてみると風になびく旗がいかにもな雰囲気を演出しています。

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復元天守の中は展示施設となっており、甲冑や火縄銃(複製とは書かれていない!)のほか、映像展示などもあり、意外と充実しています。最上階からは、大垣市を一望できます。風景としてはさほど見るべきところはないように思いますが、まだまだレトロな建物も生き残っている一方、大型のマンションが増えつつあるようです。

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写真中央の奥にクレーンが見えますが、おそらくマンションの建設だと思います。いずれはこの天守から見える風景も、面白みのない画一的なマンションだらけになってしまうのでしょうか。それはそれで市街地の再開発が進んだともいえそうですし、悪いことではないのかもしれませんが……。

 

3.大垣市内を歩き、伝統ある和菓子屋に訪問。

大垣城からほど近い位置に「金蝶園総本家」という和菓子屋さんがあります。大垣には似たような「金蝶〇」という名前の古い和菓子屋が複数あるようで、なかには「金蝶堂総本店」という店もあるようです。ルーツ的には縁があるのかもしれませんが、直接的には「金蝶園総本家」さんとは関係なさそうです。

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老舗の和菓子屋というと、スイーツのバリエーション豊富な現代では、どうも淘汰されがちな存在に思えてしまいます。金蝶園総本家は比較的元気なようで、大垣市内に複数店舗があります。北海道にはあまりこうした「和菓子屋」って無いような気がするのですよね。素材は豊富にあるわけですが、やはり「和」の土地としては歴史が浅いことによるのでしょうか。

ショーケースの内外に、置いている和菓子等のラインナップは豊富でした。

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日持ちしそうな和菓子と、日持ちしそうにない「栗きんとん」を買ってみたのですが、この栗きんとんはお節料理に出てくる栗きんとんとは全くの別物です。いわゆる栗きんとんは明るい黄色でねっちりしていますが、この「栗きんとん」はくすんだ黄色で粘り気も弱く、ただこちらのほうが和菓子らしい存在かもしれません。岐阜県内でも中津川市が元祖的な立ち位置であるらしく、大垣固有の名物というわけではないようですが、岐阜名物とは言えそうです。こういう感じの、来て初めてわかる地元の名物との巡り合いというのも、旅行の面白いところだと思います。

ちなみに岐阜の「栗きんとん」は、こんな感じのものです。見た目は地味。

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ちぎってみるとこうなる。ねっとりしていないことが見てわかると思います。

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さて、和菓子屋さんからほど近い場所に湧水が出ている所があります。こんな市街地に泉があるというのは、さすがに意外。どうやら「大手いこ井の泉」という名前がついているようです。 

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ペットボトル等の持ち合わせがなく、飲んではいません。ちゃんとした美味しい水のようですが、大垣市民も汲みに来るのでしょうか。

 

4.大垣から西へ向かうといえば……。

この時点で案外時間的余裕があったため、行くかどうか決めかねていた、ある観光地へ向かうことにします。大垣城とも所縁がないわけではないその場所とは、天下分け目の決戦地、関ケ原です。

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大垣から関ケ原東海道本線で十五分程度。関ケ原駅から関ケ原古戦場(記念碑がある場所)までは徒歩で十五分程度。距離的には近いのですが、時間帯がやや遅めで日没が迫る状況。完全に日が沈んでしまうと、機材的に撮影がつらくなるし、速足で古戦場を目指して歩いていきます。五時ともなると、すでに資料館などは閉館してしまっている時間なので、関ケ原古戦場その地に立つことだけが目的のようなものです。

駅の周囲には某ゲーム会社の某歴史SLGを彷彿とさせるイラストや、戦局の推移を書いた看板などがあり、一応観光資源を生かそうとする努力が感じられます。いわゆる歴女なのか、単独行動の若い女性の姿もあったりしました。

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歩いて関ケ原古戦場に向かうと、ややふるびた住宅地あるいは田畑が続きます。周囲を山に囲まれた、平穏な田舎町という印象。特徴として、電柱に張られた看板に関ケ原に参戦した武将のエピソードが書かれていたりして、退屈しのぎになります。正直道中の風景そのものにはそれほど見るべきところがないので、この取り組みはいいですね。

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ちなみにこれは生駒一正の看板ですが、提供に注目しましょう。なんと「生駒」電気とあります。一正の系譜は美濃生駒氏と呼ばれるそうですが、現在の可児市土田に所縁のある一族のようなので関ケ原とは距離があります。はたして直接関係があるのか、他の生駒氏の流れなのか、興味は惹かれますが確かめようがありません。

さて、関ケ原古戦場記念碑に近づいてくると若干風景が変わります。笹尾山の石田三成陣跡が見えてくるからです。ほかの陣跡は、碑文や旗印があるのが精々ですが、ここは比較的整備されており、遠目からでも陣幕的なものが見えます。あの場所から石田治部少輔は戦局を睨んでいたんだなと、歴史浪漫に浸ることもできるでしょう。

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記念碑と、決戦地を現すのぼりが見えてきます。この日はそこそこ風が強く、のぼりがよくなびいていました。

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関ケ原古戦場記念碑の周囲は田畑で、碑文以外に特に見るべきものがあるわけではありません。しかし碑文の裏に回ってみると「陸軍大将宇垣一成書」の文字。こういうのも現地でなければなかなか気づかない情報です。そういうものと分かって調べれば情報は見つかりますが、知らないことにはキーワード検索もできません。

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宇垣一成といえば日本史的には「総理大臣になれなかった男」なわけで、どういう思いでこの天下分け目の「関ケ原」という文字を残したのか、これもちょっとしたロマンといえるかな。碑文に書かれた建設日は「昭和十三年三月」ですが、宇垣一成の内閣流産が起きたのはまさに昭和十二年の出来事なんですね。細かな時系列については本格的に史料を漁らないと分からないでしょうが、宇垣一成にとって何の意味も感慨もないとは考えにくいと思います。

もう少し時間と体力があれば、石田三成陣跡に足を延ばしたかったところですが、鉄道の時間もあるため退散することにしました。ここまで何時間何キロ歩いてきたのか気になるところですが、実はこの日はまだ歩くのです。関ケ原から岐阜を経て名古屋市内へ向かいます。名古屋での様子は次の記事で。